どんなタイプにせよ、何らかの性的な活動の持つ意義は、それをする個人とその社会的グループが、それをどのように解釈するかによって、大部分きまることである。ときに性交に伴っておこる心の乱れは、めったに活動そのものの性質によるものでないし、また肉体の方に生じる結果によるものでもない。時折あるような、望まなかった妊娠だの性病という稀な例、それから、肉体的な損傷という、ごく稀な例などだけが、大体のところ望ましからぬ、肉体的な、後に残る影響である。しかし、もしその行動が、その個体を一員とする社会機構との間に、なにか目に見えて明らかな食い違いをもたらす場合には、結果は重大であり、時には、惨めなことになる。性的な経験によっておこる、いわゆる外傷結果は、その当人に能力がないことか、或は、その男性もしくは女性が実際にその経験をする時に知った満足を、認めるのを拒むこと、或は、その経験は満足である筈がないとか、それは何かの形で、望ましからぬ結果となる筈だとかいうことを、彼、又は彼女が、信じて譲らないことなどによってきまることが多い。しかし、そういうことがまた、その当人たちが育った地域社会の態度を反映しているのである。
われわれのもつ何千という事例によって、この議論が本当だということは、十分に証拠だてられている。それらは、凡そ考えつくかぎりの凡ゆるタイプの性的な行動を含み、しかも、後に心理的な乱れを残さない。これに対して、また別の事例の中では、同じ種類の行動が、恥、自責、絶望、自暴自棄、それから自殺未遂などをもたらしている。些細きわまることを、大々的な事件にでっちあげることもできる。多くの人々は、自分たちの態度と社会の掟が、この様な攪乱を惹きおこしたことを理解できないで、それこそ性的な行為そのものの本来の不正と異常との、直接の証拠に他ならないと、きめてしまうのである。